俺物語|美容師・福田祐樹という人間について。
俺物語|美容師・福田祐樹という人間について。
MY STORY|俺物語
はじめまして。
富山県富山市で美髪専門サロン「elämä(エラマ)」を経営しております、福田祐樹と申します。
美容室を探す時、皆様は何を基準に選ばれますか?
お店の雰囲気、メニュー、価格、施術事例、口コミ。
きっと、いろいろな判断材料があると思います。
でも、実際にそのお店で働いている美容師がどんな人間なのか、どんな経験をしてきたのか、何を大切にしているのか。
そこまで知る機会って、なかなかないですよね。
僕自身、お客様の大切な髪を任せていただく立場として、技術や仕上がりだけでなく、僕がどんな人間なのかを知っていただくことも大切なんじゃないかと思うようになりました。
そこで今回、僕自身のことを少し書いてみようと思います。
今年で40歳。
そして美容師になって20年が経ちました。
今では「美髪」に取り憑かれたように、毎日髪のことばかり考えています。笑
でも、最初から美容師という仕事に情熱を持っていたわけではありません。
むしろ、昔の僕を知っている人なら、今の姿を見て驚くかもしれません。
努力することが嫌いで、面倒くさいことからは逃げてばかり。
人付き合いも決して得意ではありませんでした。
そんな僕が、なぜ美容師になったのか。
東京で14年間、何を経験してきたのか。
なぜ富山に戻って独立したのか。
そして、なぜ今、ここまで美髪にこだわるようになったのか。
成功した話ばかりではありません。
失敗したこと、恥ずかしいこと、今だから笑えることも、できるだけ包み隠さず書いていこうと思います。
この物語を読んでいただいた時に、「エラマって、こんな美容師がやっているお店なんだ」と少しでも感じていただけたら嬉しいです。
かなり長いお話になりますが、お時間のある時に、ゆっくりとお付き合いいただけますと幸いです。
それでは、僕の「俺物語」の始まりです。
はじめに|福田祐樹という人間

1986年1月10日富山県富山市に3700gで大雪の日に生まれました。
血液型はO型。一人っ子です。

両親は共働きだったので、幼い頃は祖父母によく面倒を見てもらいました。祖父母とはよく旅行にも行っていましたね。

今振り返ると、両親だけでなく祖父母にもたくさん可愛がってもらって育ったんだなと思います。
そんな僕が、どういうわけか美容師になり、東京で14年間働いて、地元富山で美容室を開くことになります。
失敗も、ズルも、遠回りもたくさんしてきました。そんな僕の物語です。笑
01|人付き合いが苦手だった、ちょっと面倒くさい小学生

小学校3年生の頃。
友達がサッカーをしているのを見て、
「なんか面白そうだな」
そんな軽い気持ちで、僕もサッカーを始めました。

ところが、これが全然上手くならない。笑
当時の小学生って、できない子に対して結構厳しかったような気がします。
ミスをすると文句を言われたり、いじられたり。
今思えば、ちょっといじめられていたような時期もあったのかなと思います。
ただ、僕自身にも原因はあったんでしょうね。
昔から友達付き合いがあまり得意ではなくて、みんなにいい顔をすることもできない。
自分の気持ちを上手く伝えることもできませんでした。
そして、そんな僕にはもう一つ苦手なものがありました。
給食です。笑
特にパンの日。
これが本当に嫌いで。
どうしても食べたくない日は、熱もないのに保健室へ行っていました。
当時は水銀の体温計だったのですが、摩擦で温度を上げて、熱があるように見せかけるんです。
今考えると、とんでもない小学生ですよね。笑
両親は共働きだったので、祖母に迎えに来てもらって、そのまま帰宅。
そんなことを何度もしていました。
そして、僕が何より嫌いだったのが、
面倒くさいこと。笑
例えば、夏休みの宿題。
あれが本当に嫌で、全くやりませんでした。
当然、新学期になれば提出しなければいけません。
でも、やっていないものは出せない。
そこで僕が取った行動は、
「忘れてきました!」
「あれ?持ってきたはずなんだけどな……」
という、その場しのぎ。笑
そんな言い訳を繰り返して、なんとかやり過ごしていました。
夏休みのプールもそうです。
先生からは最低3回は来るようにと言われていたのに、
まさかの0回。
さらに、連合運動会のハードル競技。
朝から練習があったのですが、これも全く参加しませんでした。
当然、先生には怒られます。
しかも、練習していたみんなはどんどん上手くなっている。
自分だけ取り残されているような感覚。
あれはあれで、なかなか辛かったですね。笑
でも、今考えると当たり前なんです。
やらなかったのは、自分なんですから。
そんな小学校生活でしたが、4年生の頃からずっと好きな女の子がいました。
6年生くらいの時には、どうやら相手も僕のことを好きでいてくれたようで。
それを知ったのに、もう恥ずかしくて恥ずかしくて。
結局、まともに話すこともできず、そのまま終わりました。笑
一方で、友達が学校の委員会活動をしている姿を見ると、
「なんかいいな」
と思ったりもしていました。
確か6年生の時だったと思うのですが、広報委員のようなものをやった記憶があります。
さらに運動会では、団長にも立候補しました。
友達付き合いが苦手なくせに、そういう目立つことには興味があったんです。
今振り返ると、きっと僕は、
みんなから「かっこいい」と思われたかったんでしょうね。
でも、どうすればそう思ってもらえるのか分からない。
人と上手く付き合うこともできない。
自分を上手く表現することもできない。
それなのに、認められたいという気持ちだけはある。
目立ちたいくせに、努力はしたくない。
認められたいくせに、人付き合いは苦手。
自分の出し方が、全く分からない。
そんな、ちょっと不器用で、面倒くさがりな小学生だったんだと思います。

02|認められたくて必死だった、ちょっとズルい中学生
僕の出身中学は、富山市立奥田中学校。
後にバスケットボールの八村塁選手の出身校として有名になった中学校です。
中学校って、いろんな小学校から生徒が集まってくるじゃないですか。
本当にいろんな人がいました。
そんな中で、僕が考えていたこと。
それは、
「自分の存在感を出したい」
ということでした。

中学1年生の時、宿泊学習のような行事があって、僕は班のリーダーに立候補しました。
すると、クラスの盛り上げ役みたいな男子が、
「俺の班になりたい人ー!」
と言ったんです。
そしたら、結構な人数が手を挙げるんですよ。
それを見た僕は、
「これ、いいな!」
と思って、同じことをやってみました。
「俺の班になりたい人ー!」
……誰も手を挙げない。笑
あの時の空気。
今でも忘れられません。
めちゃくちゃ恥ずかしかったですね。笑
でも、考えてみれば当然なんです。
人気者がやっていることを、そのまま真似したからといって、自分も人気者になれるわけじゃない。
そんなことも分からず、とにかく人から認められたかったんでしょうね。
団体競技はもう無理。だからソフトテニスへ。

中学校では、ソフトテニス部に入りました。
実は、ソフトテニスを選んだのには理由がありました。
小学校時代、僕はサッカーをやっていました。
でも、全然上手くならないし、ミスをすると周りから文句を言われる。
友達付き合いもあまり得意ではなかったので、正直、団体競技が嫌になっていたんです。
「もう団体競技は無理だな。」
そう思いました。
そこで選んだのが、個人競技に近いソフトテニス。
もちろんダブルスなので、完全な個人競技ではありません。
でも、サッカーのように大勢でプレーする競技よりは、自分に向いているんじゃないかと思ったんです。
ところが、入部してみると、やっぱり上手い奴が羨ましい。笑
僕もレギュラーになりたい。
試合に出たい。
でも、そこまで必死に練習していたわけでもありませんでした。
当然、補欠です。
そこで僕は考えました。
3年生が引退して、2年生が中心になったタイミング。
「部長になれば、試合に出られるんじゃないか?」
そう思って、部長に立候補しました。
ところが、顧問の先生から言われたのが、
「仮仮部長」
……仮が2つ。笑
結局、そのまま仮仮部長として過ごすことになりました。
ただ、幸いなことに、レギュラーの中で部活に来なくなった人がいて、僕も試合に出られるようになりました。
実力で勝ち取ったというより、巡ってきたチャンスに助けられた感じです。笑
今考えると、本当に変なところで頭を使っていましたね。
なぜか突然、真面目になった
そんな僕でしたが、中学校に入ってから妙に意識し始めたものがありました。
内申点です。
小学校時代は、夏休みの宿題もやらず、プールにも行かず、嫌なことから逃げ回っていた僕。
それが中学校では、なぜか急に真面目になりました。
塾にも通うようになりました。
同じ塾には、クラスの頭のいい友達もいました。
そして、なぜか僕はその友達と競おうとするんです。
頭の出来が全然違うのに。笑
「なんとか上のクラスに入りたい!」
そう思って頑張りました。
そして、ようやく上のクラスに入れたと思ったら、
今度は授業についていけない。笑
どこに行っても、背伸びばかりしていました。
ただ、この頃の僕はテストの点数だけではなく、とにかく内申点を気にしていました。
先生からどう見られるか。
真面目な生徒だと思ってもらえるか。
そんなことを考えて、生徒会執行部にも入りました。
小学校時代は目立ちたくて仕方なかったのに、中学校では真面目な優等生を目指している。
でも、勉強が抜群にできるわけでもない。
スポーツが抜群にできるわけでもない。

とにかく、芋野郎でした。笑
そして、モーニング娘。にどハマりする。笑
そんな真面目な芋野郎だった僕ですが、中学2年生くらいから、あるものに夢中になりました。

モーニング娘。です。笑
当時はテレビに出ていると、欠かさずチェック。
出演番組を録画して、何度も見返したり。
今でいう、まさに「推し活」です。
ちなみに最初に好きだったのは、矢口真里さん。
そこから後藤真希さんに推し変しました。笑
学校では内申点を気にして、生徒会執行部にも入って、真面目な生徒を目指している。
でも家に帰れば、モー娘。に夢中。
今思えば、なかなか面白い中学生ですよね。笑
ただ、好きなものにはとことん夢中になる。
そんな一面も、この頃からあったのかもしれません。
恋愛だけは、小学校から何も変わらない
そんな中学2年生の頃。
好きな女の子ができました。
ずっと好きだったんです。
でも、これまた話せない。笑
小学校の時と全く同じです。
好きな人の前になると、どうしていいか分からない。
結局、想いを伝えることもできずに終わりました。
ちなみに、この話には後日談があります。
その女の子は、大人になってから結婚するのですが、
そのお相手がなんと、
小学校の時に一緒にサッカーをしていた、僕がめちゃくちゃ嫌いだった奴。笑
人生、何があるか分かりませんね。
振り返ってみると
小学校時代から、僕の中にはずっと同じ気持ちがあったように思います。
人から認められたい。
かっこいいと思われたい。
みんなの中心にいたい。
でも、そのために何をすればいいのか分からない。
人気者の真似をしてみたり。
部長になれば試合に出られると思ってみたり。
内申点を上げようと真面目な生徒を演じてみたり。
自分の実力を磨くことよりも、どうすれば評価してもらえるのかを考えていた。
そんな中学生だったのかもしれません。
ただ、小学校時代とは少し違って、勉強を頑張ってみたり、学校の活動に参加してみたり。
少しずつではありますが、自分なりに行動するようにもなっていました。
それでも、まだまだ自分という人間を理解できていなかったんでしょうね。
人からどう見られるかばかり気にして、自分がどうなりたいのかは分からない。
そんな中学校生活でした。
03|高校時代。ブレザーに憧れて入学したのに、学ランだった。笑
中学校で内申点を意識して、それなりに真面目に頑張った甲斐もあり、進学校と言われる富山南高校に進学しました。

実は、僕が富山南高校を目指した理由の一つが、
ブレザーを着たかったから。笑
親からも「南高校はブレザーだよ」と聞いていたので、それを楽しみに勉強を頑張りました。
そして、無事に高校合格!
合格後、学校へ資料を取りに行った時のことです。
校内にいた先輩たちを見て、衝撃を受けました。

みんな、学ラン着てるんです。笑
「うそやん!!?」
あれだけブレザーを楽しみにしていたのに。
まさかの学ラン。
僕の高校生活は、そんな勘違いから始まりました。笑
「お前、テニス部来るんやろ?」
そんな時、中学校で2つ上だった先輩に会いました。
その先輩は高校のテニス部に所属していて、
「お前、テニス部来るんやろ?」
と言われたんです。
そして、そのままテニス部へ。笑
特に深く考えたわけでもなく、先輩に誘われたことがきっかけでした。
でも、この選択が、僕の高校生活でとても大きな意味を持つことになります。
同級生なのに「〇〇君」。笑
高校に入ると、中学校時代から苦手だった人付き合いに、さらに拍車がかかりました。
中学校以上に、いろんな学校から初めましての人が集まってくる。
もう、誰と何を話せばいいのか全く分からない。笑
ちょっと輝いて見える同級生なんかには、同い年なのに、
「〇〇君」
と呼んでいました。
完全に距離感がおかしいですよね。笑
そんな僕が唯一、自分を出せたのがテニス部の仲間でした。
一緒に練習して、ふざけて、いろんな時間を過ごした同級生たち。
その5人とは、今でも連絡を取り合っています。

高校時代にできた、自分を飾らずにいられる仲間。
あの時テニス部に入って、本当に良かったと思っています。
ちなみに、高校でも好きな女の子はできました。
でも、やっぱり話せない。笑
というより、そもそも女子と何を話せばいいのか、全く分からなかったんです。
小学校から、恋愛に関しては全然成長していませんでしたね。笑
メールでは話せるのに、学校では話せない。笑
高校時代の僕は、とにかくカッコいい男に憧れていました。
でも、その一方で自己肯定感は驚くほど低く、人と話すことが本当に苦手でした。
特に女子。笑
文化祭や体育大会の応援団の集まりなんかで、女の子と関わる機会はありました。
当時はLINEなんてありませんから、連絡手段はメール。そこでメールアドレスを交換するわけです。
そして、ちょっといいなと思った女の子がいると、夜にめちゃくちゃメールするんですよ。笑
メールだったら普通に話せるんです。むしろ結構積極的。笑
ところが、翌朝学校に行くじゃないですか。
全く話さないんです。笑
昨日の夜、あんなにメールしていたのに。学校で会うと、まともに話しかけられない。
いや、昨日のメールの勢いはどこに行ったんだって話ですよね。笑
そして、メールのやり取りを重ねた頃、勇気を振り絞って聞くんです。
「そういえば、彼氏とかおるん?」
で、「おるよ!」って返ってくるじゃないですか。
そしたらどうすると思います?
突然、連絡を取らなくなるんです。笑
いや、何がしたいんだろう、この男は。笑
自分からメールして、自分から彼氏がいるか聞いて、いると分かった瞬間にフェードアウト。
しかも、学校では最初からまともに話せていない。
カッコよくなりたいのに、自分に自信がなくて何もできない。
理想の自分と現実の自分が全く噛み合っていなかった高校時代でした。笑

頭の中では、理想の彼氏。笑
ちなみに、高校への通学は基本的に自転車でした。
海の方から山の方へ、片道約1時間。毎日自転車を漕いで高校に通っていたんです。
ただ、たまに電車で帰ることもありました。
そんな時、電車の中でカップルを見かけるじゃないですか。
もう、めちゃくちゃ羨ましいんですよ。笑
「いいなぁ、彼女おって……」なんて思いながら、ついつい見てしまう。
そして、そこから始まるのが僕の妄想です。笑
「俺だったら、こうするのになぁ」
「俺だったら、もっとこうしてあげるのになぁ」
もう、頭の中では理想の彼氏になっているわけです。笑
でも、現実はどうでしょう。
気になる女の子と夜中までメールしていても、翌朝学校では一言も話せない。
彼氏がいると分かったら、突然メールをやめてしまう。
そんな男が、電車の中では理想の恋愛を語っているんです。
まずは女の子と普通に話せるようになれよ。笑
今思えば、本当にツッコミどころだらけの高校時代でした。
カッコよくなりたいという憧れだけは人一倍ある。でも、自分に自信がなくて行動できない。
そのくせ、頭の中では理想ばかりがどんどん膨らんでいく。
そんな、ちょっと面倒くさい高校生だったんです。笑
勉強より、テニス。
学校でうまく自分を出せないとなると、やっぱり心の拠り所を探すわけです。
僕にとって、それがテニス部でした。
勉強なんかそっちのけで、とにかくテニス。
そうなると、当然ながら成績は下がっていきます。
特に苦手だったのが数学。
赤点です。笑
しかも、進級がかかった大事なテストでも赤点。
当然、補習を受けなければいけません。
ところが、どうしても勉強したくなかった僕は、またしてもとんでもない行動に出ます。
「補習をサボったら、家に電話が来るんじゃないか?」
そう考えて、
家の電話線を抜いて、部活に行きました。笑
今思えば、本当にどうしようもない高校生です。
当然、そんなことで逃げ切れるわけもなく。
結局、親に連絡が入り、テニス部の顧問にも怒られました。
さらに、僕がめちゃくちゃ苦手だった数学の学年主任の先生にも頭を叩かれて。
部活着のまま、みんなが補習を受けている教室で、ずっと立たされました。
そして、みんなが帰る頃になって、ようやく僕の補習が始まるという。笑
小学校の夏休みの宿題から、全く成長していませんね。
嫌なことから逃げるための行動力だけは、相変わらずありました。笑
木村拓哉さんに憧れて、美容師を目指す
そんな高校生活の中で、僕はずっと思っていました。
「マジで勉強したくない。」
周りには大学進学を目指す友人もたくさんいました。
でも、僕自身は将来何をしたいのか、全く分からない。
そんな時、少し前に流行っていたドラマ『ビューティフルライフ』をビデオで観たんです。

主演は木村拓哉さん。
美容師役の木村拓哉さんが、とにかくかっこよかった。
華やかな美容師の世界。
おしゃれな服装。
そして、あのかっこよさ。
「美容師って、めちゃくちゃかっこいいじゃん!」
完全に憧れました。笑
そして、僕が考えたこと。
「美容学校なら、学力的にも全然行けそうだし……」
「木村拓哉みたいに、モテるかな?」
……そんな理由です。笑
美容師という仕事に対する強い信念があったわけでもありません。
誰かの髪をキレイにしてあげたいという立派な志があったわけでもない。
勉強はしたくない。
かっこいい仕事がしたい。
そして、できればモテたい。笑
そんな単純な気持ちから、美容師という仕事を意識し始めました。
実は、父親も美容師を勧めてくれていた
実は、美容師という仕事を勧めてくれたのは、父親でもありました。
だから、美容師を目指すことに反対されたわけではなかったんです。
ただ、後になって分かったことがあります。
父親が考えていたのは、
「大学に行って、それから美容学校に行けばいい」
という進路だったようです。
一方、その頃の僕は、
「もう勉強したくない。」
「美容学校なら行けそう。」
「美容師ってかっこいいし、モテるかもしれない。」
……そんなことしか考えていませんでした。笑
同じ「美容師になる」という話をしていたはずなのに、親子で思い描いていた道は全然違ったんですね。
こうして僕は、美容師の道へ進むことになりました。
04|美容師やるなら、東京だろ。
進路を考えた時、僕の中には一つの考えがありました。
「美容師やるなら、東京だろ。」
当時はまだ北陸新幹線なんてありません。
富山から東京というのは、今よりずっと遠い場所でした。
ただ、僕にとって東京は、そこまで縁遠い場所でもなかったんです。
実は、祖父母が元々東京出身で、富山では一緒に暮らしていました。
祖父母は富山弁をあまり話さなかったので、僕も祖父母と話す時は自然と標準語になっていたんです。
東京には親戚も多く、遠い場所ではあるけれど、どこか身近に感じる場所でもありました。
そんな時、たまたまテレビCMで目にしたのが、

山野美容専門学校。
しかも当時、僕の髪を切ってくださっていた富山の美容師さんも、山野美容専門学校の出身でした。
「じゃあ、そこに行こう。」
本当にそんな感じです。笑
深く調べたわけでも、いろんな学校を比較したわけでもありません。
こうして僕は、東京の美容専門学校へ進学することになりました。
東京に行けば、何か変わると思っていた
東京に行って、美容学校に入ったら、自分も少しは変われるんじゃないか。
そんな期待があったんだと思います。
ところが、
全然変わらない。笑
当時の美容学校って、全国からスクールカーストのトップみたいな人たちが集まってきているような場所で。
みんな華やかで、自信があって、コミュニケーション能力も高い。
一方の僕は、小学校からずっと人付き合いが苦手なまま。
ちなみに「福ちゃん」と呼ばれ始めたのも、この頃だったような気がします。笑
とにかく自己肯定感が低かったんですよね。
入学して間もない頃、初めての飲み会のような集まりがあったらしいのですが、僕はその話を聞いていなくて。
「え?飲み会あるの?」
「みんな行くの?」
自分だけ知らないことが不安で、連絡を取れる人たちに聞きまくった記憶があります。笑
東京に来ても、相変わらず周りの目ばかり気にしていました。
遅れてやってきた青春
そんな、自分がどう過ごせばいいのか分からなかった頃。
仲良くしてくれる友達ができました。
一つ年上の同級生が2人と、同い年の同級生が1人。
僕を含めた4人で、いつも一緒に過ごすようになりました。
美容学校なので、もちろん技術の練習もあります。
僕の家に集まって練習して、そのまま学校へ行ったり。
本当に、毎日のように一緒にいました。
高校時代はテニス部の仲間だけが心の拠り所でしたが、東京でもようやく自分が自然体でいられる場所ができたんです。

遅れてやってきた青春。
今振り返ると、そんな時間だったように思います。
美容学校は、まるで訓練校。笑
ちなみに、当時の美容学校は今とはまた違った厳しさがありました。
まるで訓練校です。笑
例えば、寝坊して遅刻すると、その日の実技授業は参加させてもらえません。
みんなが練習している間、ずっと後ろに立って見学。
それが3時間。
なかなか厳しいですよね。笑
ただ、そのおかげもあってか、僕は準皆勤で卒業することができました。
小学校時代、夏休みの宿題から逃げ回っていた僕が、です。
少しは成長したんでしょうか。笑
またしても、かっこいい人に憧れる
ところが、ここで僕の悪いクセが出ます。
当時、ファッション雑誌のストリートスナップなどによく載っている同級生がいました。
やっぱり、そういう人ってかっこよく見えるんですよね。
そして僕は、また考えてしまったんです。
「この友達と仲良くなったら、俺も雑誌に載れるんじゃないか?」
今考えると、本当に情けない。笑
せっかく仲良くしてくれていた友達から少し離れて、その同級生と過ごすようになりました。
そんなある日、原宿を歩いていると声をかけられました。
「え!?俺!?」
ついに僕にも来たのか!
……と思ったら、
声をかけられたのは、その友達だけ。笑
めちゃくちゃ惨めでした。
自分自身に魅力があるわけでもないのに、かっこいい人の隣にいれば、自分までかっこよくなれると思っていたんでしょうね。
中学校の宿泊学習で、人気者の真似をして誰にも手を挙げてもらえなかった時から、何も変わっていませんでした。
本当に大切なものは、すぐそばにあった
卒業が近づいた頃だったと思います。
最初に仲良くしていた友達たちと、また一緒に過ごす機会が増えていきました。
そして、就職が決まり、僕は西東京の方へ引っ越すことになりました。
その時、友達が車を出して、引っ越しを手伝ってくれたんです。
僕の母親も富山から来ていました。
すると、その友達は、親世代が聴くような音楽まで準備してくれていたんです。
僕の引っ越しを手伝ってくれるだけでもありがたいのに、親のことまで考えてくれている。
その気遣いが、本当に嬉しかった。
思い返せば、僕はずっと人からどう見られるかを気にしていました。
かっこいいと思われたい。
人気者になりたい。
認められたい。
そのために、誰と一緒にいるかまで考えてしまっていた。
でも、そんな僕に何かを求めるわけでもなく、自然に仲良くしてくれていた友達がいたんです。
そして、僕が新しい生活を始める時、当たり前のように力を貸してくれた。
人の大切さを、初めてちゃんと知った瞬間だったように思います。
東京に行けば、自分が変わると思っていました。
でも、場所を変えただけでは、僕自身は何も変わらなかった。
それでも、東京に来たからこそ出会えた人たちがいて。
その人たちのおかげで、少しだけ大切なことに気づけたんです。
美容師としての技術だけではなく、人として大切なことも学んだ。
そんな美容専門学校時代でした。
05|19歳。原宿の面接で、僕だけ質問されなかった。
美容学校時代、原宿にある有名サロンの面接を受けました。
当時はカリスマ美容師ブーム。
原宿の有名サロンで働くことに憧れていたんです。
面接は5人ほどのグループ面接でした。
他の人たちは、いろんな質問をされていました。
ところが、僕には一つも質問が来ない。
何かを答えて失敗したわけでもない。
自分をアピールして、否定されたわけでもない。
そのチャンスすら、与えてもらえなかったんです。
あの時の悔しさは、今でも覚えています。

19歳。
中途半端な気持ちでは、誰にも響いてくれない。
美容業界、そして社会の厳しさを初めて知った瞬間でした。
06|14年間。美容師として育ててもらった場所
その後、僕は教育に力を入れている美容室に就職しました。

ここで14年間、お世話になることになります。
美容師になってからは、とにかく練習の日々でした。
営業が終わってから練習して、気づけば夜中。
日付が変わることもありました。
小学校時代、宿題から逃げ回っていた僕が、です。笑
もちろん練習が嫌いなところは変わらず、苦手なことから逃げていた時期もありました。笑
もっと上手くなりたい。
お客様に喜んでもらいたい。
そして、先輩や周りの人たちに認めてもらいたい。
そんな気持ちがあったんだと思います。
本店の先輩たちと、50人の前でダダ滑りした話

入社した当初、僕には本店は華やかで、自分のいた支店はちょっと地味、という印象がありました。
本店には僕より2年前に入社した男性の先輩が1人、1年前に入社した男性の先輩が2人。その3人がめちゃくちゃ仲良くて。特に1個上の2人は会社の盛り上げ役でした。
入社式や忘年会でマイクを持ってコントのようなことをやるんです。面白くて、僕はずっと「あの輪に入りたい」と思っていました。全店イベントが楽しみで仕方なかったんです。
そのうち先輩たちが僕をイジるようになりました。「はい、じゃあここで福田くん」。突然マイクが回ってくる。人と話すのも苦手な僕が、50人くらいの前で一発芸をさせられるんです。
当然、大パニック。そしてダダ滑り。笑
でも毎回やらされる。毎回滑る。笑
そんな経験を重ねるうちに、少しずつ人前に出ることへの抵抗がなくなっていきました。後に大勢の美容師さんの前で講師をするようになるなんて、この頃は想像もしていませんでした。
美容師なのに、ファッションが全く分からない。笑
ここで少し、入社当時の僕のファッションについてお話しさせてください。
美容師って、やっぱりオシャレなイメージがあるじゃないですか?
でも、当時の僕はというと……
ファッションというものが全く分かりませんでした。笑
なんでそんな奴が美容師やってるんだって話なんですけど。笑
専門学校時代の年上の友達の影響だったのか、入社1年目の僕は、当時でいう「お兄系」というファッションをしていました。
デニムの裾は地面について、ボサボサ。
襟付きのシャツを着ているかと思えば、胸くらいまでボタンが開いている。笑
さらに日焼けサロンにも通っていたので、肌は真っ黒。
そして髪型はというと……

M字バングに、長めの襟足。笑
今の若い方には伝わらないかもしれませんが、当時流行っていた「お兄系」と「ギャル男」が混ざったような格好です。
いや、本当に何を目指していたんでしょうね。笑
そして迎えた入社2年目。
後輩たちの入社式で、全店舗のスタッフを対象にしたファッションコンテストが開催されました。
もちろん、僕も参加しました。
その時の格好がまた、なかなかのものでして。笑
ネクタイは黒。でも、きちんと締めないスタイル。
シャツは、なぜか襟が3つくらいあるようなデザイン。笑
髪型は相変わらず、襟足長めのM字バング。
そして、片方の耳には引っかけるタイプのピアス。
もう、文章で説明するだけでも恥ずかしい。笑
ところが、当時の僕は自分のファッションがダサいなんて思っていないわけです。
だからコンテストの結果発表の時も、
「もしかしたら選ばれるかも……!」
なんて、ドキドキしているんですよ。笑
結果は……

もちろん、何も受賞できませんでした。笑
今なら分かります。
この格好で、なぜ受賞できると思っていたのか。笑
そんな僕のファッションを見かねたのか、ある時、先輩が一緒に買い物へ行ってくれることになりました。
そこで服の選び方や組み合わせ方など、いろいろ教えてもらったんです。
本当にありがたい話ですよね。
ただ、教えてもらったからといって、すぐにオシャレになれるわけではありません。
そもそも僕自身、何がオシャレなのか分からないんですから。笑
だから当時、服を買いに行くとよくやっていたことがあります。
お店に飾ってあるマネキンを見て、
「この上下、全部ください。」
……そうです。
マネキン買いです。笑
自分でコーディネートする自信がないから、プロが組み合わせたものをそのまま買う。
今思えば、これもある意味、学ぶための方法だったのかもしれません。
美容師としての技術はもちろんですが、ファッションも、人との接し方も、本当に何も分かっていなかった僕。
そんな僕を見捨てずに、いろいろ教えてくれた先輩たちには、今でも感謝しています。
美容師としての僕は、技術だけでなく、周りの人たちに育ててもらったんだと思います。
お昼ご飯の買い出しと、秘密の休憩場所。笑
美容師1年目の頃、各スタイリストにお昼ご飯の注文を聞いて回る仕事がありました。
1時間ほどで注文を集め、お弁当屋さんに行き、出来上がるまでの間に別のお店の食べ物も買う。
戻ったら預かったお金を計算して、自分もご飯を食べてフロアに出る。そんなシステムでした。
ちなみに僕より前の先輩たちは夕飯まで買いに行っていたそうです。
食べ物も飲み物も頼まれて荷物が重すぎるということで、僕の代から飲み物は禁止、食べ物だけになっていました。
笑
一つ上の先輩は同期が全員辞めてしまい、ずっと一人でこの買い出しを担当していたのでお手の物。
僕の計算まで手伝ってくれていました。
で、ここでも僕のサボりグセが発動します。お弁当を待つ間、近くの薬局のスタッフ通用口みたいな秘密の場所を発見。
コンビニのホットスナックを食べ、タバコを吸って休憩していました。笑
おかげで昼のうちに計算する時間はゼロ。練習が終わった深夜0時近くに、先輩に手伝ってもらってようやく計算を終える始末。

本当にどうしようもない後輩です。
そして2年目。後輩が僕と同じようなことをして、買い出しからタバコ臭くなって戻ってきたんです。
「お前、タバコ吸ったでしょ? 何やってんだよ。もっと仕事真面目にやれよ。買い出しだって立派な仕事。ふざけんなよ」
……って、僕が説教していたんです。
うん。当時の俺、ふざけんな。笑
撮影のメイクを任された日に、大寝坊。笑

1年目、メイクを担当していた僕は、先輩の作品撮影でメイクを任せてもらえることになりました。
休日の撮影で、集合は朝8時。ありがたい機会だったのに、その前夜、先輩と同期と朝までカラオケにいたんです。
「福田、明日何時なの?」「8時です」「え、大丈夫なの?」「大丈夫ですよ! 余裕です!」……そう言って朝までいました。
翌朝、ピンポーン、とチャイムが鳴る。同期が僕を呼びに来てくれていました。時計を見ると9時。
「え!?え!?」とパニック。せっかく迎えに来てくれた同期に「ごめん!先行く!」と言って追い抜き、お店へ走りました。
先輩は当然ブチ切れ。メイクはもう別のスタッフが代わりに担当してくれていました。
任せてもらった仕事も、先輩の期待も、自分の甘さで台無しにしてしまった。
本当に、仕事をナメていたと思います。
「福田ミーティング」が開かれた新人時代
入社1年目の僕は、社会人として本当に未熟でした。学生時代のアルバイトは宅配寿司。人と深く関わる経験も少なく、学生生活の延長のような感覚だったんです。
敬語もまともに使えない。というより、先輩と早く仲良くなりたくて、わざと言葉を崩していました。今なら分かります。仲良くなることと、礼儀をなくすことは全然違う。笑
当然問題になって、教育係の3人の先輩による「福田ミーティング」が開かれていたんです。僕の態度についての会議です。陰で言われていることも分かっていたけど、なかなか直せなかった。
当時一緒に働いていたオーナーの奥様からは「福田くんには悪いものが憑いてる」と言われ、ストーンのようなものまでいただきました。笑
「スタイリストが稼いでいるからアシスタントは給料をもらえる」と言われても、当時は納得できずにイライラしていました。アシスタントだって働いているじゃないか、と。
今なら経営の仕組みとして理解できることもあります。でも当時の僕は、自分の立場もよく分かっていなかった。本当に迷惑をかけた1年目でした。
2年目になり後輩ができて、ようやく態度を改めるようになりました。すると同じ店舗の男性の先輩に言われたんです。
「マイナスがプラスになって、ようやくゼロになったんだから。これから頑張らないと」
えっ、ようやくゼロなの!?笑
練習嫌いなのに、同期で一番になりたかった

同期は僕を含めて4人。1人が早い段階で退職し、残った3人の中では一番先にスタイリストデビューしたかったんです。
でも、僕は練習が嫌い。特にカラーモデルを探すモデルハントが苦手で、練習会でもただ時間を過ごしていることがありました。だったらどうやって一番になるんだって話ですよね。笑
ところがカットの練習が始まると、カットは好きで楽しかった。モデルハントもそれなりにできるようになりました。
ジュニアスタイリストのサロンに行くには、最低100人のカットモデルと技術チェックが必要でした。休みの日もモデルを探して切っていました。
スタッフルームには担当したモデルの人数を記録する表があったんですが、同期より先に進みたくて、1人しか切っていないのに2人、3人と丸をつけたこともありました。
完全に不正です。笑 当時バレていたのかな。今となっては分かりません。
そんなこともあって、同期の中で一番先にジュニアスタイリストサロンへ行きました。もちろん褒められた話ではありません。
そのサロンにはシャンプー台がなく、カットだけ。30分1000円です。土日はご飯を急いで食べて、1日20人切る日もありました。でも売上は2万円。笑 それでも目標があるから頑張る。とにかくカットを繰り返しました。
次は時間で料金が決まる教育サロン。カット30分1000円、カラーを含めて90分なら3000円という仕組みでした。空き時間には同期や年齢の近い先輩・後輩といろいろ話して、楽しかったですね。
そして入社4年目くらいで、元の店舗でスタイリストデビュー。1個上の女性の先輩より1か月ほど遅れてのデビューでした。割と頑張っていたんです。笑
ちょうど退職する先輩がいてお客様の引き継ぎがあったのですが、ほとんど上の先輩に回って、僕にはほとんど引き継がれませんでした。売上でその先輩を超える月もあったのに。
アシスタント時代の印象が悪かったのかな、と当時は思いました。でも売上目標はあるし、届かなければ言われる。めちゃくちゃ理不尽だなって思っていました。笑
体重49kg。胃潰瘍と十二指腸潰瘍。そして、また飲みに行く。笑

朝早い電車で出勤して、帰りはほぼ終電。そんなカットサロン時代の生活を送っていた頃、僕の体重は49kgまで落ちていました。
なぜ、そこまで痩せてしまったのか。
というのも、終電で帰ってきてから、さらに飲みに行っていたんです。笑
睡眠時間は、毎日3〜4時間ほど。
当時はショートスリーパーのつもりでしたが、今思えば、ただ睡眠時間を削っていただけなんですよね。笑
しかも、コーヒーをかなりの量飲んで、タバコも相当吸っていました。
そんな生活を続けていたある頃から、お腹が空くと激しい胃痛に襲われるようになったんです。
検査を受けたところ、胃潰瘍と十二指腸潰瘍が見つかりました。
さらに、ピロリ菌までいたんです。
そこで、ピロリ菌の除菌治療を受けました。
普通なら、これを機に生活習慣を見直しますよね。
睡眠時間を増やして、お酒を控えて、身体を大切にする。
ところが僕はというと……
ピロリ菌を除菌して、また飲みに行っていました。笑
いや、何も学んでないじゃん。
今ではお客様に髪や生活習慣の大切さをお伝えすることもありますが、当時の自分にはまず言ってやりたいです。
「とりあえず、ちゃんと寝ろ。」笑
ポスティングのはずが、パチンコへ。笑
ジュニアスタイリストとしてカットサロンで働いていた頃、暇な日は2時間ほど予約枠を空けて、チラシ400枚を持ってポスティングに出ることがありました。
宅配寿司のアルバイトでもポスティングをしていたので、お手の物。
……なのに僕はコンビニに寄り、外のゴミ箱に300枚ほど捨て、残りの100枚を配ってパチンコへ。
マジでどうしようもない。笑 今、経営者として振り返ると、集客のための時間とチラシを無駄にするなんて到底許されません。
これも隠しようのない当時の僕です。

後輩に「俺の名前は絶対出すなよ」。笑
4年目くらいの頃、入社したてで寝坊グセのある後輩を飲みに連れていったことがありました。
翌日も仕事なのに、僕は冗談で「おい、明日寝坊しても俺の名前絶対出すなよ」と言ったんです。
翌朝、その後輩が来ない。笑 しばらくして寝坊で出勤し、めちゃくちゃ怒られていました。
それでも後輩は「飲みには行ってません。自分のせいです」と、最後まで僕の名前を出さなかったんです。
そんな律儀な後輩を見て、僕はその夜、また飲みに連れていってあげました。笑 1年目に撮影で大寝坊した自分が、4年目になってもこれです。

バーのご縁で、テレビ収録の裏側へ。
同じく4年目くらいの頃。よく行っていたバーのマスターから、同級生がテレビのヘアメイクをしていると聞きました。
偶然その方とバーでお会いすると、なんと当時人気絶頂だった「めちゃイケ」のヘアメイクさん。
ご縁があって収録現場を見学させていただけることになりました。
場所はお台場のスタジオ。24時間テレビの裏側で放送される特別番組で、エスパー伊東さんがいろいろなことをする企画。
ゲストはなんと北川景子さんと貫地谷しほりさん!
テレビでしか見たことのない芸能人が目の前にいる。収録後、お二人が僕からわずか2mほどの距離を通って帰っていかれたんです。
すごい空間でした。
そして喫煙所では加藤浩次さんと一緒にタバコを吸いました。あの時のタバコは格別でした。笑
今考えると、そのバーには本当にすごい方が集まっていました。
めちゃイケのヘアメイクさん、文藝春秋の方、バンダイの部長さん、慶應出身のお医者さん。
「東京って、本当にすごい人ばっかりだな。何か特殊なものを持っている人ばっかりだな」と思っていました。
美容室の外にも、知らない世界がたくさんあると教えてくれた場所でした。

「ネイル一本でやりたい」と言った後輩。
店長になる前、僕の一つ下の後輩が「ネイルでやっていきたい」と言い出しました。
それまで美容師としてデビューする流れだったのに、ネイルオンリー。
当時の僕には意味が分かりませんでした。「なんで自分から仕事の幅を狭めるの?」と。
でも、その後輩が作るネイルは独創的で、持ちも良く、お客様からものすごく支持されていました。
「ああ、こういう道もあるんだな」。何でもできることだけが正解じゃない。
一つの分野を突き詰めて選ばれる働き方を、後輩から教えてもらった気がします。
今の美髪専門サロンという自分の道にも、どこかつながる経験です。

メイク、パーソナルカラー、そして人前で話す仕事

当時のオーナーは「これからは男性美容師もメイクを施術しないといけない」という考えで、僕もアシスタント時代からメイクを学ばせてもらいました。
その流れでパーソナルカラーをサロンで推進することになり、資生堂プロフェッショナルさんにお世話になりました。当時のマネージャーが他のサロンへ講師として伺う際、僕も同行させてもらったんです。
福島県の郡山にはよく行きました。3回コースの講習でしたが、東日本大震災のタイミングと重なり、最後の3回目はなくなりました。
その後は僕自身も講師をするようになり、青森にも行きました。50人の前で一発芸をして滑っていた僕が、他の美容師さんの前で話すようになったんです。

その仕事で大変お世話になった担当の方が、突然亡くなられたこともありました。葬儀に伺った時、ご家族の中に中学生くらいの男の子もいらっしゃって。本当に辛かった。今でも忘れられません。
人との出会いが自分を成長させてくれること。そして、その時間が当たり前に続くわけではないことを感じました。
パソコンの鬼と、1畳の秘密基地。笑
パーソナルカラーの講師を務めた後くらいに、全店スタッフを4シーズン別に撮影し、資料にしようという話がありました。
ここから僕はパソコンの鬼になります。
当時の店舗のパソコンは、ロールカーテンを閉めると1畳ほどになる狭いスペースに置かれていました。
営業中もそこで資料を作っていたので、忙しい時には「福田、出てきて!」とよく怒られていました。
でも、1畳の密室にパソコンの熱。暖かいじゃないですか。眠くなりますよね?
うん。めっちゃ寝てました。笑
1年目から何も変わっていないというか、図太いというか。
パソコンの勉強もしていましたが、居心地のいいサボり場所を見つける才能も健在でした。

母校のアップ講習で感じた、時代の変化。
美容師7年目くらいの頃、母校の美容専門学校で夜間課程の学生にアップスタイルを教える機会がありました。

教えていた学生が突然教室を出ていったんです。すると先生が、その学生の作品を途中まで作り始めました。
「え、なんで先生がやってるんですか?」と聞くと、「途中までやっておけば、戻ってきた時に諦めずに続けられるから」と。
当時の僕には理解できませんでした。技術は自分でやらなければ身につかない。
時代が変わったな、美容師を目指す人が軟弱になったのかな、とまで思いました。
もちろん先生には学生を支える考えがあったのでしょう。でも、できないからこそ自分でやるべきじゃないかという違和感が強く残っています。
……1年目に先輩に計算を手伝ってもらっていた僕が言うのもなんですが。笑
苦手だったデジタルパーマと、講師の仕事
実は当時、デジタルパーマと縮毛矯正が本当に苦手でした。
付け巻きのデジタルパーマが登場する前は、ストレート剤のような薬剤で施術していて、どれくらいかかるのか、全然分からなかったんです。

僕はAFLOATの宮村浩気さんのフェミニンなスタイルが大好きで、そのご縁からジュエルコスメティクスさんと交流するようになりました。「一緒に仕事をしましょう」と声をかけていただき、新製品の付け巻きデジタルパーマの技術講師を担当することに。
埼玉、栃木、宮城のサロンへ伺いました。大勢の美容師さんの前でパーマを巻くので、手が震えるほど緊張しました。笑
でも、講師として伝えるために技術を考え直して、ようやくデジタルパーマに自信が持てるようになったんです。教えることで、自分も理解できたんですね。
縮毛矯正はもっと怖かった。当時の薬剤は作用が強く、2剤を流して乾かすまで「お願いだから伸びてますように」と祈っていました。笑
髪のダメージよりクセの強さを中心に薬剤を選んで、放置も10分程度。今の知識で振り返ると、恐ろしいことをしていたと思います。
今では得意技術の一つですが、最初から得意だったわけではありません。むしろ、怖くて仕方なかった技術でした。
ヘアメイクという表現の世界に憧れた

shu uemuraのヘアメイクコンテストで、全国大会に出場することになりました。
それがきっかけで、ヘアメイクという世界に強く憧れるようになったんです。
「もっとヘアメイクを勉強したい。」
「ヘアメイクの学校に行ってみたい。」
そう思って、当時のオーナーに相談しました。
すると、shu uemuraの養成教室のようなところに通わせてもらえることになりました。
本当にありがたかったですね。
そこから、ヘアスタイルやメイクで自分の考えを表現することが楽しくなっていきました。
美容業界のコンテストに出場したり、フォト作品を作ったり。
それまでとは違う、美容師としての楽しさを知った時期でした。

美容業界のコンテストに感じていた違和感
ただ、当時の美容業界のコンテストには、疑問に感じることもありました。
それは、いかにビフォーと違うスタイルを作るか、ということ。
例えば、髪の長いモデルさんを用意したら、思い切って切らなければいけない。
そんな空気があったんです。
でも、そもそも髪を切らせてくれるモデルさんなんて、簡単には見つかりません。
街でモデルハントをしても、そんな都合のいい方はいないんですよね。
それでも、コンテストで評価されるためには、大きく変化させなければいけない。

「表現するって、髪を切らなきゃダメなのかな?」
そんな疑問を持っていました。
今の僕は、全くそう思っていません。
髪を切ることだけが表現ではないし、大きく変化させることだけが美容師の技術でもない。
正直、今ではコンテストなんてクソだと思うことすらあります。笑
ただ、当時は自分がコンテストに挑戦することで、後輩たちにも作品作りの楽しさを知ってもらいたいという気持ちがありました。
だからこそ、自分なりに挑戦を続けていたんです。

大好きだった、フェミニンの帝王
一方で、勤務先の全店舗で行われる社内コンテストもありました。
そのコンテストでは、僕が作った巻き髪スタイルで優勝することができました。
当時、僕が心から尊敬していた美容師さんがいます。

AFLOATの宮村浩気さん。
僕の中では、今でも変わらず、
「フェミニンの帝王」
です。
本当に大好きで、宮村さんの講習には何度も足を運びました。
柔らかくて、女性らしくて、華やかなヘアスタイル。
あの世界観が大好きだったんです。
僕自身も巻き髪のスタイルに強く惹かれていました。
だからこそ、自分の好きなスタイルで社内コンテストに優勝できたことは、嬉しかったですね。
美容業界のコンテストに感じていた疑問と、好きなヘアスタイルを追求する楽しさ。
それは僕の中では、別のものでした。
ただ、どちらの経験も、美容師としての表現を考える大切な時間だったと思います。
役職は上がる。でも、自信はなかった。

美容師として経験を重ねる中で、後輩の教育や店舗運営、新しいメニュー作りなど、さまざまな仕事を任せてもらうようになりました。
ただ、当時のサロンには僕より上の先輩スタイリストがたくさんいました。
なかなか自分のお客様を担当する機会が増えず、売上も思うように伸びませんでした。
そんな中、先輩たちが少しずつ退職していきました。
すると、自然と自分の立場が上がっていくんです。
男性美容師が少ない環境だったことも、少なからず影響していたと思います。
役職は上がる。
責任も増える。
でも、自分が圧倒的な結果を残して、その立場を勝ち取ったという実感はありませんでした。
だからこそ、どこか自信がなかったんです。
「自分に店長が務まるのかな。」
「本当にこれでいいのかな。」
そんなことを考えるようになりました。

転職を考えた時、後輩の存在があった
一度、東京の有名サロンへの転職を考えたこともありました。
もっと自分の可能性を試してみたい。
そんな気持ちがあったんです。
でも、その頃、僕が面倒を見ていた男性の後輩がスタイリストデビューを控えていました。
「自分が見てあげないと。」
そう思って、結局その時は転職しませんでした。
今振り返ると、それが正しかったのかどうかは分かりません。
でも、当時の僕にとって、後輩の存在はそれだけ大きかったんです。

スーツで自転車に乗って、八王子の結婚式場へ
役職がついた頃だったと思います。トータルビューティーを手がけていたサロンだったご縁で、八王子の結婚式場のヘアメイクに入ることになりました。
式場なのでスーツ着用。でも家から近かったので、スーツで自転車に乗って現場へ。笑

男性の僕は主に親族の列席者のヘアセットを担当しました。この頃からアップスタイルにも少しずつ自信がついてきました。
ただ、正直に言うと、行きたくなかった。笑 やっぱりサロンでお客様を担当したかったんです。
予約が入っていないスタッフが式場に行く仕組みだったので、架空のお客様の予約を入れて行かないようにしたこともありました。今考えると、本当に良くないですね。笑
その頃、全店舗で月1回アップスタイルのセミナーを受けられるようになりました。そこで初めて、形の作り方やバランスが理解できるようになってきたんです。「もっと早く知りたかった!」と思いました。

巻き髪を追いかけるほど、怖くなっていった
この頃から、システムトリートメントをしているのに、お客様の髪が全然キレイにならないな、と感じるようになりました。
ただ、僕は巻き髪で勝負したかった。独立しても、柔らかく女性らしいデザインを中心にやっていくつもりだったので、最初はそこまで深く考えていなかったんです。
当時は街で可愛い子に声をかけ、営業後にスタイリングして、バウンス板を立てて、ライトをつけて、一眼レフでスタイル写真を撮っていました。機材は全部自腹です。笑
もっと上手くなりたくて、セミナーにもめちゃくちゃ行きました。でも、なかなか思い描くスタイルにならない。
「こういうデザインが得意なお店に移った方がいいのかな」とも思いました。
大好きな巻き髪なのに、その道でやっていくことが少しずつ怖くなっていたんです。
その一方で、トリートメントをしてもお客様の髪が本当に良くなっているのか分からない。その疑問も、心の中に残り続けていました。

07|娘が生まれて、人生を考えるようになった
30代になり、娘が生まれました。

それまでは、美容師としてどう成長するか。
どうすれば認めてもらえるか。
そんなことを考えていたように思います。
でも、娘が生まれてから、少しずつ考え方が変わっていきました。
娘は生後2か月から保育園に通っていました。
僕たち美容師は、土日が忙しい仕事です。
だから、保育園の行事が土日にあると、なかなか参加することができません。
子供の成長を見られる時間は、思っている以上に限られている。
そんなことを感じるようになりました。
「このままの働き方でいいんだろうか。」
美容師としての人生だけではなく、父親として、家族とどう生きていくのか。
そんなことを考えるようになったんです。

08|共同経営の話。そして、自分の道へ
そんな頃、当時のオーナーから、先輩スタイリストたちと一緒にサロンを経営していく話をいただきました。
最初は、その話を受けようと思いました。
14年間お世話になったサロン。
育ててもらった場所。
そこで新しい形を作っていけるなら、それも一つの道だと思ったんです。
でも、話を進める中で、先輩たちとの経営に対する考え方の違いが見えてきました。
どちらが正しいとか、間違っているとかではありません。
ただ、目指している方向が違ったんです。
そして、僕は思いました。
「この人とは、やっていけない。」
一緒に経営するということは、同じ方向を向いて、責任を分かち合うということ。
その根本が違うままでは、きっと上手くいかない。
そんな時、僕の考え方を大きく変える出会いがありました。
当たり前を疑うということ

京都の「のりこ美容室」の前田秀雄さんのセミナーに参加した時のことです。
そこで出会ったのが、
クリティカルシンキング。
当たり前だと思っていることを、疑ってみる。
本当にそれが正しいのか。
他にもっと良い方法はないのか。
その考え方を聞いた時、
「これ、まさに僕がずっと思っていたことだ。」
そう感じました。
美容業界には、昔から続いている当たり前がたくさんあります。
でも、それが本当にお客様のためになっているのか。
本当に自分がやりたいことなのか。
そこを考えることが大切なんだと、改めて気づかされたんです。
セミナーの帰りの電車。
一緒に参加していた先輩に、僕は退職したいという気持ちを伝えました。
「自分の責任の中で、やりたいことをやろう。」
そう決めた瞬間でした。

09|14年間への感謝。そして、独立の準備
退職を決意してから、当時のオーナーにその気持ちを伝えました。
ただ、すぐに辞めるつもりはありませんでした。
僕は店長という立場でしたし、14年間も育ててもらったサロンです。
自分の都合だけで、突然いなくなることはしたくなかった。
だから、退職するのは1年後にしました。
お客様へのご挨拶。
スタッフへの引き継ぎ。
後輩たちに伝えられること。
自分が任されていた仕事。
できる限りのことをしてから、次の道へ進みたかったんです。
14年間育ててもらった場所で、最後に自分ができる仕事。
それが、きちんと次につなぐことだと思いました。
同時に、独立するための準備も始めました。

サロンの名前。
コンセプト。
場所。
そして、どんな美容室を作りたいのか。
自分自身に問い続ける時間が始まりました。

独立前、Facebookで見つけた頭皮のセミナー
独立を考えながらも、実は僕にはまだ明確な軸がありませんでした。今と同じように巻き髪のデザインをやっていくんだろうな、という漠然としたものだったんです。
そんな時、Facebookでshu uemuraのセミナーを通じて知り合った美容師さんが、頭皮のセミナーを募集していました。
僕は「独立を考えているけど、軸みたいなものがなくて。参加したいです」とコメントしました。
すると「福田さんなら、今のままで武器とかいらんでしょ」と言われたんです。普段から僕のスタイル投稿を見てくださっていたそうで。
「いやいや、そんなことないんです!めちゃくちゃブレブレなんです!」笑
そんなやり取りをして、参加することにしました。セミナーではテロメアなど、頭皮に関する新しい知識にも触れました。
でも、そこでさらに大きな出会いがあったんです。
1万円のトリートメント。そして上尾での衝撃
参加者の中に、LIFEの松本さんという美容師さんがいらっしゃいました。
「今度トリートメントを出すんです」「トリートメントで1万円いただいています」とおっしゃるんです。
えっ、1万円!?
当時の僕のサロンでは、一番高いシステムトリートメントでも4000円ほど。トリートメントで1万円なんて、聞いたことがありませんでした。
その新商品のお披露目で、埼玉県上尾市の松本さんのサロンへお邪魔しました。そこで実際の技術を見せていただいて、思ったんです。
「これだ!」
髪をキレイにすること。自分はこれでいくしかない。
前のサロンに勤めながら、松本さんの薬剤を自分で購入し、当時のお客様にお願いして施術を試させていただきました。
そこでグリオキシル酸やレブリン酸といった成分を知りました。この時の技術が、エラマ創業当初のトリートメントのベースになります。
ずっと巻き髪を追いかけていた僕が、ようやく美容師として進みたい方向を見つけた瞬間でした。

10|なぜ、美髪専門サロンだったのか
当時の僕が得意としていたのは、コテを使った巻き髪のスタイルでした。
宮村さんに憧れて、女性らしい柔らかなスタイルを追求してきました。
でも、考えたんです。

「自分は、この分野で日本一になれるのか?」
正直、そうは思えませんでした。
そして、もう一つ考えていたことがありました。
僕は、これからもずっとお客様の髪に触れていたかったんです。
当時のオーナーは、将来的には現場を離れ、スタッフが主体となってサロンを運営する形を考えていました。
でも、僕は違いました。
何歳になっても、美容師としてお客様と向き合っていたい。
そんな思いがありました。
そこで興味を持ったのが、
美髪。
そして、
キュア=治療。
という考え方でした。
例えば、お医者さん。
若い先生よりも、経験を重ねた先生に診てもらいたいと思うことってありますよね。
美容師も、そうなれるんじゃないか。
年齢を重ねることが、弱みではなく強みになる。
髪や頭皮の知識を深め、お客様の悩みに向き合い続ける。
経験を積めば積むほど、お客様にできることが増えていく。
そんな美容師になりたいと思ったんです。
そして、たどり着いた考えが、
「お客様の人生を考えられるサロンを作ろう。」
でした。
elämäという名前に込めた想い
サロン名の「elämä(エラマ)」は、フィンランド語で「人生」という意味です。
髪をキレイにすることだけが目的ではありません。
お客様がこれからどんな人生を歩んでいくのか。
その人生の中で、髪がどんな存在であってほしいのか。
そこまで考えられる美容室にしたかったんです。
今日だけキレイならいい。
その場だけ満足してもらえればいい。
そんな美容室にはしたくありませんでした。
今日のキレイより、未来のキレイ。
今のエラマにつながる考え方が、少しずつ形になっていきました。

11|2020年。コロナとともに始まったエラマ
2020年1月。
14年間お世話になったサロンを退職しました。

そして、2020年4月。
美髪専門サロン elämä(エラマ)をオープンしました。
念願の独立です。
ただし、開業と同時にとんでもないものがやってきました。
新型コロナウイルスです。笑
まさか、自分が独立するタイミングで世界中がこんな状況になるなんて。
人生、本当に何が起こるか分かりません。
それでも、僕についてきてくれたスタッフがいました。
新しいお店にも足を運んでくださるお客様がいました。
本当にありがたかったです。
独立して初めて、自分がどれだけ多くの方に支えられてきたのかを実感しました。
そして、これからは自分の責任で、すべてを決めていかなければいけない。
そんな新しい美容師人生が始まりました。

美髪専門サロンを作った。でも、まだ何も分かっていなかった。
エラマをオープンした時から、美髪に特化したサロンを目指していました。
髪や頭皮のことを勉強して、お客様にとって本当に良い技術を提供したい。
そんな想いはありました。
ただ、今振り返ると、当時の僕はまだまだ何も分かっていませんでした。
もちろん、その時は自分なりに一生懸命勉強していたつもりです。
でも、知識を増やせば増やすほど、今まで知らなかったことが次々と出てくる。
美容師歴が長いからといって、すべてを理解しているわけではない。
そのことを、後になって痛感することになります。
キレイになっていた髪に、軋みが出てきた
創業当初、松本さんの薬剤は僕にとって新しい技術でした。施術を重ねる中で、お客様の髪がどんどんキレイになっていく。嬉しかったですね。
でも、ある時を境に、なんだか軋みが出てくるようになったんです。
「なんでだろう?」
当時は原因が分かりませんでした。そこで、同じようなトリートメントを作られている別の方の薬剤を使い始めました。
その方はレブリン酸をベースにした処方で、やっぱり質感が良かったんです。しばらく、その薬剤を使わせていただきました。
すると今度は、松本さんが新しい薬剤を発表されました。試してみると、さらに良くなっている!
そこから再び松本さんの薬剤に戻り、およそ3年間お世話になることになります。
薬剤は一度決めたら終わりではない。もっと良いものがあれば試してみる。自分が気に入っているかどうかではなく、お客様の髪がどうなっていくのか。
ずっと、そのことを考えていました。
そんな中、ある日スタッフから言われた一言が、また僕を動かすことになるんです。
12|スタッフの一言が、美容師人生を変えた
ある日、6年勤めてくれているゆづきからこんな話がありました。

「お客様の髪を、もっとキレイに保たせてあげる方法はないですか?」
この言葉が、僕の中で大きなきっかけになりました。
美容室で仕上げた瞬間は、もちろんキレイ。
でも、そのキレイはどれくらい続いているんだろう。
次に来店されるまで、お客様はどんな状態で過ごしているんだろう。
そもそも、美容室に来た日だけキレイになれば、それでいいんだろうか。
そんなことを考え始めたんです。
「今日のキレイより、未来のキレイ。」
今のエラマが大切にしている考え方は、ここにつながっています。
24時間、美髪のことを考える
そこから、僕の生活は少しずつ変わっていきました。
営業中はもちろん、営業が終わってからも髪のことを考える。
薬剤のこと。
トリートメントのこと。
頭皮のこと。
ホームケアのこと。
今まで当たり前だと思っていた施術方法も、もう一度見直してみる。
夜中まで調べたり、実際に試したり。
気がつけば、ずっと髪のことを考えているんです。
24時間、美髪。
大げさに聞こえるかもしれませんが、今では本当にそんな感覚です。
そして、調べ続けた先で、僕の美容師人生を大きく変える出会いがありました。
「平均ではなく、日本一を目指せ」

その出会いが、タモさんでした。
タモさんから学んだ薬剤の知識や、髪に対する考え方。
それは、僕がそれまで当たり前だと思っていた美容技術とは、全く違うものでした。
正直、衝撃でした。
20年近く美容師をやってきたのに、知らないことがこんなにもあるのか。
自分が理解しているつもりだったことも、実は表面的な知識でしかなかったんじゃないか。
そう思うことが何度もありました。
そして、タモさんから教わった言葉があります。
「平均ではなく、日本一を目指せ。」
この言葉が、僕の中に強く残っています。
マニュアル通りに施術すれば、平均的な結果は出せるかもしれません。
でも、お客様の髪は一人ひとり違います。
髪質も、ダメージの履歴も、生活習慣も違う。
だったら、同じ処方でいいわけがない。
一人ひとりの髪に対して、もっと深く考える必要がある。
そう気づかされたんです。
そこから、僕の美髪に対する探究は、さらに加速していきました。
学んだことを実践する。
結果を確認する。
疑問があれば、また調べる。
そして、自分なりに応用していく。
その繰り返しです。
美髪の先には、まだまだ遠いゴールがある。
いや、きっとゴールなんてないんでしょうね。
でも、それが今は楽しくて仕方ありません。
13|人生は、マニュアルじゃない。
髪は、本当に複雑です。
年齢による変化。
カラーや縮毛矯正の履歴。
日々のホームケア。
生活習慣。
いろんな要素が重なって、今の髪があります。
でも、その複雑さを理解することは、お客様の仕事ではありません。
僕たち美容師の仕事です。
難しいからできない。
履歴が複雑だから仕方ない。
そうやって諦めるのではなく、どうすれば少しでも良くできるのかを考える。
そのために、知識や技術を磨き続ける。
僕は、そんな美容師でありたいと思っています。
そして、今でも大切にしているのが、あの時学んだクリティカルシンキングです。
「僕の今は、本当に当たり前なのか?」
当たり前を疑う。
もっと良い方法を探す。
新しい技術があれば、学んで、試して、考える。
エラマは、完成された美容室ではありません。
これからも変わり続ける美容室です。
なぜなら、お客様の人生も変わっていくから。
年齢も、環境も、好みも、価値観も変わります。
だから、僕たちの提案も変わっていかなければいけない。
人生は、マニュアルじゃない。
お客様を決まった答えに当てはめるのではなく、一人ひとりの人生に合わせて考える。
僕のエラマは、そんなエラマです。

14|娘の夢。そして、これからのエラマ。
7年前に生まれた娘も、今では小学生になりました。
そんな娘には、今、一つの夢があります。
「エラマで美容師になること。」
僕にとって、こんなに嬉しいことはありません。
以前の職場にいたままだったら、叶えてあげられそうになかった夢。
でも、今なら。
エラマなら、その夢を叶えてあげられるかもしれない。
娘が本当に美容師になるかどうかは、まだ分かりません。
これから、いろんな夢を見るでしょうし、違う道を選ぶかもしれません。
それでも、もし娘が美容師になりたいと思い続けてくれるなら。
その時に、エラマという場所があるように。
エラマを続けていくこと。
それも、今の僕の大切な目標の一つになりました。
15|20年かけて、ようやく見つけたもの
振り返ってみると、本当に遠回りばかりしてきました。
小学校時代。
人付き合いが苦手なのに、かっこいいと思われたくて。
嫌なことからは逃げ回っていました。
中学校時代。
サッカーで団体競技に苦手意識を持って、ソフトテニスを始めて。
人気者に憧れて、部長になれば試合に出られると思って、内申点を気にして。
高校時代。
テニスに夢中になって、勉強から逃げたくて。
木村拓哉さんに憧れて、美容師を目指しました。
美容専門学校時代。
東京に行けば変われると思ったのに、何も変わらなくて。
かっこいい人の隣にいれば、自分もかっこよくなれると思っていました。
でも、そんな僕を支えてくれる友達がいました。
美容師になってからも、認められたいという気持ちはずっとありました。
技術を磨いて、コンテストに挑戦して、後輩を育てて。
役職が上がっても、どこか自信がなくて。
自分が何を目指しているのか、分からなくなることもありました。
ただガムシャラに走り続けた20代。
自分の生き方に迷い、答えを探し続けた30代。
そして40代。
ようやく、お客様のために本気で美を提案するという、自分なりの美容師としての軸を見つけることができました。
昔の僕は、
「人からどう見られるか」
ばかり考えていました。
でも、今の僕が考えているのは、
「目の前のお客様のために、何ができるか。」
ということです。
お客様が髪のことで悩んだ時。
何か疑問が浮かんだ時。
「あ、エラマに聞いてみよう。」
「なんか聞きたいな。」
そんなふうに、気軽に思い出してもらえる存在でありたい。
そして、僕たちが持っている知識や技術を使って、その方にとっての最高の答えを一緒に探していきたい。
それが、今の僕が考える美容師という仕事です。

16|俺物語から、エラマ物語へ。
20年間を振り返ってみると、いろんな人との出会いがありました。
友達。
先輩。
後輩。
先生。
家族。
スタッフ。
そして、お客様。
その一つひとつの出会いがなければ、今の僕はいません。
昔の僕は、自分がどう見られるかばかり考えていました。
でも、今は違います。
誰かの人生に、少しでも良い影響を与えられる美容師でありたい。
そんなふうに思っています。
エラマという名前に込めた「人生」という意味。
それは、お客様の人生であり、スタッフの人生であり、僕自身の人生でもあります。
そして、これから先のエラマの物語は、僕一人で作るものではありません。
お客様と。
スタッフと。
家族と。
みんなで作っていくものです。
さて。
どんな物語にしていきましょうか?
僕自身の物語のペンは、ここで一度置こうと思います。
20年間を振り返る「俺物語」のペンは、これで最後です。
でも――
エラマ物語のペンは、これからさらに加速することになりそうです。
20年間、本当にありがとうございました。
そして、これからのエラマも、よろしくお願いいたします。
elämä 代表 福田祐樹
